この記事を書いた人 大里康正
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大阪で真田信繁(幸村)の真田山「三光神社」と終焉の地「安居神社」を旅しよう
記事更新日: 2016-01-10
2016年の大河ドラマ「真田丸」の主人公、それが真田信繁(幸村)です。その勇猛果敢な姿から多くの人を魅了し、戦国最強の武将と言われています。
今回は大阪冬の陣で強固な防備であった真田山の「三光神社」と、徳川家康を追撃するもついに力尽きた夏の陣での終焉の地である「安居神社」をご紹介します。
真田信繁(幸村)とは
真っ赤な鎧と六連銭(六文銭)が有名な戦国時代の武将ですが、真田幸村の本当の名前は信繁です。幸村は通称です。信繁自身が幸村を名乗った記録は無いと言われ、正式なものは信繁となっています。
なぜ幸村で通るようになったのかは定かではありませんが、その武勇が様々な形で取り上げられる過程で、幸村で定着していったとも言われます。以降の記載は正式に信繁で統一します。
生まれは永禄10年(1567年)と永禄13年(1570年)の二つの説があります。没年は慶長20年(1615年)ですが、大阪夏の陣にて没します。
大阪城近くの三光神社
大阪城の東南に位置したとされる真田丸。そこに三光神社があります。大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園内にある神社です。創建は第18代、反正天皇の時代、武内宿禰の末裔が代々神職を継承と伝えられます。三光は天照大神、月読尊、素戔嗚尊の神々を祭っているからです。
徳川との戦いで籠城論ばかりだった豊臣方の中で、信繁は大阪城の外に出て、陣を張りました。現在、この付近は真田山と呼ばれています。この位置が意味するもの、それはさらなる城の守りのためだったとされています。
そこで強固な真田丸を築いた信繁の見事な戦い方に、徳川家康は信繁の叔父の隠岐守信尹を使って10万石を条件に停戦を申し入れましたが信繁は聞きません。
家康は続いて信濃一国の条件を出します、ここでも信繁は「利欲のために心変わりするのは武士の恥」として拒絶しました。豊臣秀頼への忠義のため、信念を変えることはありませんでした。
神社にある抜け穴
三光神社には真田の抜け穴と呼ばれる所があります。真田信繁が大阪城までの地下道を掘ったということですが、残念ながらこちらは後世のものであることが分かっています。
和歌山県の九度山にも抜け穴と呼ばれるものが存在しています。関ヶ原の戦いで石田三成軍側であった真田昌幸(信繁の父)、信繁親子が蟄居させられた場所です。ここで昌幸は没し、信繁は14年もの間、過ごすことになります。
他には群馬県の沼田城、長野県の上田城にも真田井戸があります。これらも抜け穴と言われています。
真田十勇士の1人、猿飛佐助の影響かも知れませんが戦国時代は忍者が大活躍の時代。そのイメージで後世に作られてものもあるでしょう。ところで忍者を現代でイメージすると不思議な術を使う人たちとなりますが、実際は科学的な知識を兼ね備え、情報収集を目的とした人たちだったのです。
三光神社の抜け穴がどれだけの意味を持つのかは別として、信繁を巡る旅で大事な場所であることに変わりはありません。
安居神社へ
続いて真田信繁終焉の地です。それが大阪府大阪市天王寺区にある安居神社です。多くの信繁に関係する場所の中でも、ぜひとも訪れておきたい場所です。
安居神社は真田山にある三光神社からは南に約5キロ。三光神社からは近くの玉造駅より大阪環状線を使い、天王寺駅で下車します。そこから茶臼山を通って行くことが出来ます。茶臼山はこの後に触れます。旅をする上でこのルートは興味深いものがあります。
祭神は少彦名神と菅原道真です。この神社には道真が大宰府に流される途中で喉を潤したという井戸が残っています。
大阪冬の陣で家康は豊臣に対し和睦案を出します。その条件の中に城の外堀を埋めるという内容がありましたが、徳川軍の大砲におびえていた淀殿は受け入れました。しかしその後、大阪城の堀は全て埋められ、強固だった真田丸は解体されてしまいました。ここに家康の強かさが見えます。
これは話が違うと堀を復旧しようとした豊臣側に対し、家康は待っていたかのように軍勢を出し、大阪夏の陣が始まります。守りの堅かった冬の陣と違い、堀が埋められていては勝つ見込みの無い夏の陣です。ここで信繁は城を出た戦いを選び、現在の大阪市天王寺区茶臼山町にある茶臼山に陣取ります。ここはさらに古い時代の古墳が残っている場所であり、冬の陣の時に家康が陣取った場所でした。
この時の戦いはすさまじいものとなりました。徳川本陣を目指した真田軍により、家康や家臣は家康の旗さえ投げ出して逃げ、家康は二度まで死を覚悟!
しかしながら多勢に無勢、真田軍に後軍が無かったこともありやがて徳川軍に押し返され、敗走となった信繁に最後まで従ったのは3人だけと言われる中、安居神社が終焉の地となりました。松の木に寄りかかり最後となったと言われています。
信繁の戦い方から後にこのような言葉が出来ました。「本陣に二度ならず三度も突入し、立てられた御馬印を倒した勇士は、異国では知らぬことだが日本では例の無い武者ぶり」
時代背景
旅をより楽しく、そして深くしてもらうために、ここで真田家について触れます。
武田勝頼は天正10年(1582年)、天目山で織田信長と徳川家康の連合軍と戦い、敗れます。そして武田家は滅亡。それまで武田家の家臣であった真田昌幸(信繁の父)は、不本意ではありましたが真田家のために徳川家康の呼び掛けに応じ、家臣となることを選択しました。
天正12年、徳川家康は北条氏直と戦っていましたが和睦となります。その際の条件が真田家としてはあり得ないものでした。なぜなら真田の拠点、上州の沼田を北条に渡すとなっており、これに昌幸は激怒します。土地は真田にとって極めて重要なものであり、決別します。
翌年になると家康は真田を攻めるため軍勢を出します。しかし真田昌幸は長男の信幸と次男の信繁とともに城を守り、撃退しています。
その後、昌幸の長男である信幸は徳川方になりました。以後、徳川と豊臣に分かれることになりますが、真田家は親子、兄弟であっても家を守るためには大きな二つの陣営に分かれておくという厳しい選択をしたのです。
今を生きる
いかがでしたか?戦国最強の武将、真田信繁。その潔い姿はこれからも称えられていくことでしょう。これを機会に、真田丸に縁のある「三光神社」と終焉の地「安居神社」に行かれてみてはいかがでしょうか。
最後に、信繁が大阪夏の陣の前に残したとされる言葉で終わりとします。今出来ることに全力を尽くす、そのような気持ちが伝わってくるようです。
「定めなき浮世にて候へば一日先は知らざる事に候」