この記事を書いた人 安威川敏樹
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「真田丸」だけではない!和歌山県九度山町にある世界遺産・慈尊院
記事作成日: 2016-02-26
歴史の宝庫・九度山
NHK大河ドラマ「真田丸」が好調のようです。主人公・真田幸村(実名:真田信繁)の本拠地といえば長野県上田市ですが、第二の故郷と言えるのが和歌山県九度山町です。ここには、幸村が14年間も過ごした真田庵や、幸村が伝えたとされる信州そば処の幸村庵があります。
しかし、九度山は幸村のために興された町ではありません。幸村がやって来る何百年も前から歴史に名を遺す、由緒正しき場所なのです。
幸村ブームのおかげで九度山を訪れる方も多いでしょうが、それだけではもったいないので、是非とも行っていただきたい名所を紹介しましょう。
空海が創建した慈尊院
九度山は高野山の麓にあります。高野山といえば平安時代、あの弘法大師こと空海が開祖した真言宗の総本山です。去年、開創1200年ということで大いに賑わいました。
その弘法大師が816年(幸村が九度山に移り住む784年前)、九度山の地に高野山の表玄関として創建したのが慈尊院で、現在は世界遺産に登録されています。慈尊院には政所が置かれ、宿泊所や冬期修業の場として使用されました。なお、慈尊院から高野山へ通ずる高野山町石道も世界遺産となっています。
世界遺産・慈尊院の山門
哀しき母子の物語
慈尊院にはこんな逸話があります。ある時、弘法大師の母親が我が子を一目見たいと、高齢にもかかわらず四国の讃岐国(現在の香川県)からはるばる高野山にやって来ました。しかし弘法大師は、母親の高野山への入山を許しませんでした。
なぜなら、当時の高野山は女人禁制だったからです。たとえ肉親といえども、自ら戒律を破るわけはいかないと、母親には会いませんでした。
とはいえ、年老いた母親を四国へ追い帰すはずがありません。そこで高野山の麓にある慈尊院に母親を住まわせることにしました。そのため、慈尊院は女人高野と呼ばれるようになったのです。
弘法大師は、愛する母親に会うため、月に9回も高野山から20数kmかけて下山し、慈尊院に通ったと言います。これが九度山という地名の由来です。もっとも、本当に九度も下山したのかどうかは定かではありませんが、それだけ多く通い詰めたということです。
835年、母親が死去しましたが、その時に弘法大師は弥勒菩薩の夢を見ました。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶので、この寺の名前が慈尊院になったということです。
慈尊院の建造物
慈尊院の山門をくぐると、すぐに多宝塔が見えてきます。こちらは江戸時代の1624年に再建されたものです。
多宝塔
山門を入って右側には弘法大師堂があります。ここには弘法大師が本尊として祀られています。
弘法大師堂
弘法大師堂と参道を隔てて正対するように、山門から入って左側には弥勒堂と拝堂があります。弥勒堂は重要文化財となっており、中には国宝である木造弥勒仏坐像が安置されていますが、21年に一度しか開扉しません。
弥勒堂(重要文化財)
拝堂
拝堂の裏にある噴水の奥には、今は亡きガイド犬「ゴン」の石像がある
空海が創建した神社
慈尊院の多宝塔の向こうには、119段という長い石段があります。石段を登って行くと、二つの大きな鳥居に出くわします。寺なのに鳥居? 実は、慈尊院のすぐ上にはやはり世界遺産の丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)があるのです。
丹生官省符神社を創建したのも弘法大師です。前述のように空海といえば真言宗の開祖、即ち仏教徒なのに、神社を創建したというのも不思議な感じがします。
実は当時、神道と仏教が一つの信仰体系となることは珍しくありませんでした。これを神仏習合と言います。現在でも、鳥居を内包している寺がありますね。丹生官省符神社は、慈尊院の守り神というわけです。
神道と仏教が完全に分離(神仏分離)したのは意外にも遅く、なんと明治時代になってからです。
最上段の鳥居には、奇妙な輪があります。これを「茅(ち)の輪」と言い、茅の輪くぐりをすると悪い目に遭わない、という言い伝えがあるそうです。そして、鳥居から入った正面には拝殿があります。
茅の輪がある鳥居
拝殿
慈尊院へのアクセス
慈尊院の最寄り駅は南海高野線の九度山駅ですが、徒歩約30分とかなり遠くなっています。真田庵はそれよりも近いのですが、それでも結構遠いので、散歩感覚で行くといいでしょう。
車で行かれる方は無料駐車場もありますが、置ける台数が少ないのであまりお勧めできません。満車の場合は、やや離れていますが「道の駅・柿の郷くどやま」に車を停めて、ぶらぶら歩いて行きましょう。
ここ九度山町で、幸村巡りとともに空海巡りもぜひ堪能してみてください!